ほにゃブロ。

猫みたいな何かがほにゃほにゃするブログ。自らの思いの丈をつらつらと書いていきます。基本は雑記、最近は西洋占星術が多めです。

なぜ結婚式を挙げるのか?なんの目的で?それがよくわからなかった。

今日は結婚式のお話です。

なぜ、結婚式って、当たり前に挙げている風習がまた廃れないのでしょうか?

結婚して結婚式を挙げるカップルは、二組に1人という統計が出ているようですが、それでもまだ、結婚=結婚式(披露宴)を挙げるのが当たり前という風潮があるように感じます。

 

ところで当方、女性ですが、小さい頃から結婚に夢見る少女・・・ではありませんでした。将来の夢は花嫁さん?と言う友達が信じられない子ども時代を歩みました。

中学生、高校生になっても、その気持ちは変わらず、そもそも、結婚したいってなぜ思えるのか?純白の白いドレス・・いつか着てみたいと友達が言っていましたが、私は言葉には出さずとも、いつもなんと言えば良いのか困惑していました。

 

私の両親は、夫婦喧嘩の絶えず、いつもそのとばっちりを受けていたこと、また両親から本当の愛情を受けずに親のエゴ/親のサンドバッグ的な存在であったため、まったく「結婚」に憧れる訳がありませんでした。

 

しかし、社会人になり、仕事でブライダル関係に関わることになり、勤務先の会社近辺のみならず、全国各地のブライダル事情を調べ回っていました。主に情報源は式場のHP、ゼクシィでした。そのときに、結婚式を挙げているカップルを見て、思うようになりました。「羨ましい・・こんなに笑顔で、幸せそう。そんな旦那さんに恵まれて、いいなぁ」私はいつも惨めな気持ちでした。自分は全く今、シアワセじゃない。でも、こんなに満ちあふれた笑顔の人の写真を加工して、せこせこ仕事をしている。「なんか、惨めだ・・・・」結婚式も挙げるような相手のいない自分が恥ずかしく感じました。

 

「やっぱり、結婚式はあげることが普通なのかな」

 

しばらくしてから、私は高校時代の友人の結婚式に招待されます。その友人は同じ部活仲間で、私としては大切な友人だと思っていたので、喜んで参加したい!と思いました。実際、結婚式と披露宴で、余興はなしで、その子が幸せそうな顔をしていたこと、ご両親が涙しているところ、を見て、この結婚式に参加して良かった!と思いました。当時、安月給であり、また地元へ帰る交通費がきつく、ご祝儀もまともに払えないため親に借り参加していました。

 

その後、私の「結婚式」に対する疑問が、久しく沸き上がる出来事がありました。

大学時代の友人からの結婚式の誘いです。私は、この友人とは正直言ってそこまで中が良いとまでは言えず、むしろこの友人の自慢気な性格が苦手でした。初めから誘ってくれたらすぐにお断りできたのですが、個人的にラインで連絡が・・

「久しぶりー元気?」のみだったため、無視することも出来ず。招待状を送ってくれることになり、私は正直こう思いました。

「ご祝儀に3万円も払いたくない。」「参加するだけ、苦痛だろう。」

けれど、「友人として参加しないなんて、礼儀知らずでは。」という気持ちもあり、しばらく悩みました。恩がない訳でもないし、お世話になったこともある、けれど、私はこの友人からある悪意を感じたことが直感でありました。先に話にあげた高校時代の友人は天然過ぎるほどの純粋な子ですが、この大学時代の友人はどこか打算的で、自分の話が好きであり、笑顔がギスギスしている、本人もたくさん友人はいるが仲の良い友達はいないと話していたため、手放しで祝いたいという気持ちにはなれませんでした。

私は結局、この友人の誘いをお断りしましたが、何を勘違いしたのか、「結婚式参加ありがとう、2次会の出席はどうしますか?」という定型文をラインで送ってきました。私はこの時点で感じます。「ここまで悩んだけれど、相手はそこまで自分のことをなんとも思っていないんだ」と。あくまでも、彼女を飾り立てる1人でしかない。。

 

「祝ってもらって当たり前」「ご祝儀貰って当たり前」

私はこのような考えをしている人が苦手なんだと思います。

 

大学時代の友人がそのように思っていたのかどうかは本人のみぞ知りますが、普段の行いや振る舞い、そして私に対する今回の対応で大方予想はつきます。

 

結婚式をあげる理由はなんだって良いと思います。けれど、みんなやっているから私もあげる、その日だけは主役なんだ!と思ってしまうのは私は違うのではないかと思います。

ちなみに、高校時代の友達は、お車代を新幹線往復代まで出して頂き。まさか頂けるとは思わず、申し訳ないくらいの気持ちになりました。でも、そういう気持ちがとっても大事だし、ありがたいことだと思うのです。

 

高校時代の友人の結婚式には喜んで参加したい!と思い

大学時代の友人の結婚式にはどのように断るかを必死に考え

これは、それぞれの関係性によるのだと思いました。

 

だって、自分の話ばかりして、自慢ばかりする人が、

他人の幸せを喜んでくれるとは、思わないもの。

いくら友達が多くたって、

本当にその中で心から祝ってくれてる人はどれだけいるのだろう?

 

 

私には虚しすぎて、できない。

「もてなす」ことが、面白い芸なのか余興なのか、おいしい料理なのか

それは人それぞれ違うと思うけれど、

私が感じるのは、「相手の負担にならないこと」が大事だと思う。

 

それは、私自身お金で苦労しているから。

でも、お金で苦労していない、親と暮らしていてお金がサポートされる状況にあれば、

ご祝儀代3万円+交通費+当日のセット代がどれほどきついのか、わからないでしょう。

 

そもそも、結婚式って何の為にあるのよ?

 

私が思うのは、

披露宴の余興やキャンドルサービスブーケトスなどなど・・・

それはあくまでも「オプション」の楽しみなので必要がないと思う。

そこに「おもてなし」の心を使うのではなく、

 

「ありがとう、これからも、よろしくお願いします」

という感謝など、色々な気持ちを届ける場

そして、これから夫婦2人で頑張りますという意識表明

それだけで十分。

それ以外は、お金をかけたければ豪華にやればいいと思います。自己満足なので。

 

 

結婚=シアワセ

結婚式をあげる=シアワセの象徴

 

そんな図式のような気がして。

大事なのは心でしょ。気持ちでしょ。

カタチばっかり追いかけてたって、カタチのシアワセだけなんだ。

それは、私が幼い頃から見栄や体裁ばかり気にしていた両親を見てずっと感じていたこと。だからこそ、見栄っ張りな人がすぐ目についてしまう。

自分だって今まで愛されず満たされてこなかったから。気持ちはわかる。今が満たされていない人はなんでも「過剰」なアピールをしてしまうから。だからその「過剰」をなんとも思わないようになれたらいいのだけれど。ただし、今回大学時代の友人の結婚式に参加しなかったのは、そういった「カタチ」ばかりを追い求めていて、本当の幸せや喜びがない、上辺だけのヤラセみたいな滑稽な式に、参加したくはなかったんだ。

それが私の意思。

 

私は、結婚式をあげるのなら、少なくとも会費制か、ご祝儀無しにしたい。

感謝の気持ちを伝える場にしたい。

だって、結婚するもしないも個人の勝手なのに、それを「祝って下さい」っておかしな話だと思わない?

 

 

それぞれのカルマが解消されていた。

それぞれのカルマが解消されていた。
 
私は何か勘違いをしていたのかもしれない。
私の中の何かが、私の過去とは私は決別して、私ばかりがみんなと違って前へ進んでいると、そんなことを思っていた。心の中で馬鹿にしていただけだった、家族を。そんな自分がとても恥ずかしくなった。
私の中の辛さも、家族の中にある辛さも、それぞれ存在していて、それぞれがそれぞれにあった克服をしている。なるべくしてなったのか、それとも、そういう星回り、運命というのか。本当がどちらなのかはわからない。
 
でも、どちらだとしても、家族が前向きに進んでいること、楽しく暮らしていることを見るのは嬉しかった。一番驚いたのは、私の兄だ。私の兄は10年ほど引きこもりをしていた。しかし、本日久しぶりにあったら、普通にコミュニケーションがとれているし、なんだか全く別人になったようだった。昔は生気がなかったが、今は気が満々だった。そうなのだ、変わっているのは私だけではない、彼だって大きく変わっていた。私のこの目は、私が見たいものが見える。見たくないものは見えない。それが人間だ。本日見えたこと、それは、前向きに生きている兄だった。
 
私が学生時代、彼が部屋から閉じこもって出てこない時、それはそれは心配だった。彼は一体どうなってしまうのだろう、そんなことしていてはダメだよ、外へ出ようよ・・・と。当時の私の目には、突如おかしくなった兄しか見えていなかった。そして、少し前までの私は、まだ過去の兄の記憶が強かった。思い出す時だって、過去の兄だった。でもそれは、私の中にしか存在しない空想だったのだ。
 
過去の兄のあの時は、彼にとって必要なステップだったのだろうと、今だからこそ感じる。
 
なぜ、私たち家族はバラバラだったのか。それは、お互いがお互いに愛情不足だったから。見て欲しい、かまってほしい、愛して欲しい、、破壊的行動に陥ってしまうほどの強い感情、大きな赤ん坊がたくさん存在した。誰が何のために、誰がその発端なのか・・・それはわからない。しかし、自分がそうしたいと思うがままに生きられていれさえすれば、それはもはや自由だ。
愛されないと、全てが憎くなる。しかし、一番憎いのは自分だったのだ。自分が憎くて憎くて堪らなかった。
 
私はもう少し、自分を省みたいと思う。
いつだって過去は乗り越えることができる。
私を甚振った母も、家庭を省みなかった父も、彼らなりの願望に基づいて今まで生きてきたのだろう。そう慮ることが、多少なりともでき始めたのかもしれない。
 
人を恨んで、憎んで、それで終わり。それもいい。しかし、自分を苦しめるだけなのだ。人を憎むとはつまり、自分を憎んでいることと同じなのだ。

私の不幸を喜ぶ友達などもはや友達ではない。

おはようございます。HONYAです。

思いがけず、予定があるから早起きしたのにドタキャンになってしまったため時間があまりましたので、ブログを更新してしまいます。

 

最近の中の私のテーマは、ズバリ、

「friend」

です。

 

なぜ英語なのか?それはただの気分です。  

 

 

私はあまり友達がいません。上辺の友達も、仲のいい友達も、多くはないと思います。小学校から大学まで、大概グループの中の一人として私は友達の中にひっそりと?君臨しておりました。

正直なところ、今日は友達のことについて語るつもりですが、私だって大して素晴らしい人間性を持った人間とは言えません。むしろ気分屋な猫です。(猫様に失礼です)失礼いたしました。

 

大学生の頃に色々誘ってもらったあるグループ。10人程になります。その中で、自己愛が強すぎる、中には他人の不幸は蜜の味と断言する子もいました。(いや、まだ断言しているくらいの方がまだマシなのかも?)他人の不幸は蜜の味なのにそれを言わない隠している、けれど態度ににじみでている方もいました。しかしそれは、私が感じたことなので、100%合っているとは思わないし、他の人はそう思わない可能性は高いでしょう。しかしながら、私はそういうのに結構敏感なので…、親の不幸そうな顔を見て育ってきたというのも合って。何かマイナスエネルギーを感じたのです。

 

というのも、友達Aさんは、私が恋愛関係で悩んで落ち込んでいる時、真っ先に駆けつけてくれたことがありました。これだけ聞くと、友達想いの優しい子だと思うでしょう。しかしながら、私が悩みを話すたびに、その子の顔は…微笑んでいたのです。

 

微笑む?私の不幸話、それが楽しいの?

微笑むというのも、ほくそ笑むという方が近いと思いますが。

彼女の態度にとっても違和感があったわけです。それは、他の子にも同じ話を聞いてもらった時は、辛そうな顔して、自分の幸せ話はせずに黙って聞いてくれました。

同じようで、まったくの別物でした。それは、比較したから尚わかった気がします。

 

友達Bさんは、またもや私の不幸話を相談していた、むしろ、精神科に行った方がいいかな?と本気で悩むくらい鬱っぽくなっていた頃です。

話聞くよ!と言ってくれたので、私はその子に会いにいきました。そこで、上記のことを話しました。そしたら…

「え?そんなの大したことないって!大丈夫大丈夫!精神科なんてヤバイ位発狂したことある人ばっかだから。私も昔行ったけど、あ、自分は正常だわwと思ったくらいだしwwwwwwww」

当時の私は、

「そ、そっか…。私の悩みは大したことないんだ……」と更に落ち込みました。

 

(ま、実はこの数年後に精神科行ったんですが、全然静かで変な人はいなかったですよ。誇大表現だったことは確実です。)

 

そういえば、今思い出せばこの友達Bは、私が悩んでいる時にこぞって「話聞くよ」と言って、会うたびに「へぇ〜大丈夫大丈夫!」と言いながら嘲笑っていた。

それでも私は、数少ない友達だから、悪く思うのはおかしい、私が変なんだと、友達をまるで神扱いしていた気がします。

友達Bに合って、悩み相談するたびに、私はグッタリ疲れていました。

 

 

それに、この友達Bが、恋愛関係で傷つけられてしまったと、相談されていた時のこと。その相手の男性に電話して欲しいと頼まれ、私は男気を出しました。

アイツ(男性のこと)!酷い奴だな!私がビシッといったるわ!!! 

そして、私はそのアイツに電話してビシッと決めました。その後結局、友達Bは自業自得だったのではないかと一人で知ってしまった訳ですが…。

 

なんだろう、大学生になってから、友達ってこんなものだっけ?と思うことが増えました。むしろ、トラウマいっぱいできました。

 

友達がいないことがコンプレックスでした。

しかし今は、こう思うのです。

 

 

 

「私の不幸が幸せと思うヤツは、

    友達でもなんでもねぇ。

    ただの輩だ」

 

 

友達を断捨離してみたらどうでしょう?

結構、楽ですよ。

 

自分を大事にしていたらね、

こう人を嫌らしく傷付ける人なんて、避けて当然。と思うようになりました。

 

前は自己肯定感が低かったから。

相手のサゲ攻撃にやられまくりだった。

けど、今は違う。

 

そして、過去の私と今の私は、ベツモノだ。

 

今この瞬間、いつだって、生まれ変われることさえできるのだ。

 

 

 

 

シアワセは自分でつかみ取れ!何かの所為にしてたら、なんにも変わらない。

こんばんは。明日は早起きしないといけないのに、ブログ書いちゃっていいのかな?やばいな?でも書きたい!書きたい気持ちは止められぇ!・・HONYAです。(長い)

 

えーっと。本題の前に。すっごくね、真面目な話を書きたいと思って、割と長文を書いておりますが、元々ふざけている人なので抑えきれませんので、ほどほどにいきたいと思います。お付き合いいただけましたら幸いでございます。

 

本題です。

今回のタイトルは、私が思っていることです。

 

シアワセって、なんだろうね?私は、そんなことを3年間ぐらい毎日考えていました。(盛ってます、あしからず)

本当に真剣に考えていました。

そこで、私はシアワセって他人と比べた相対的なものではなく、自分自身がどう感じるか・受け止めるかの個人軸にあると気づきました。いや、なんでそんなこともわからなかったのよ?と今では思うのですが、当時は本気で幸せの意味がわかりませんでした。なぜかって??そりゃ、不幸な人生ばかり歩んでいて、幸せを感じたことがなかったからです。最近巷で話題の「毒親」なる元で生まれ育っていましたから。幸せがどうの、ではなく、「生きるか?死ぬか?」のまさに「DEAD or ALIVE」な訳ですよ。(まんま)親に気に入られなければ、体罰が待っている。捨てられるかもしれない。そんな恐怖と常に戦って来た私は、成人した後もそれを引きずり生きていました。だから、幸せになりたい、なんて考えたことすらなかったのです。

 

小学生、中学生、高校生、大学生・・

どの時代の私も、思っていること、根底はいつも同じでした。

「なぜ、自分ばかりこんな処遇なのか。」

何かわからないけれど、憎んでいた。世間も、親も、ほとんど全て。

 

所謂「毒親」って、幸せな人生歩んでいないんですよね。いつだって、彼らは「被害者面」している。そして、原因は自分以外にあると思ってる。何かが悪い、誰かが悪い、自分は悪くない!!と。まさに、不幸と共にある人生と言えます。彼らは、なぜ毒親なのか。おおよそが、「愛情」を知らないから。「子どもへの愛し方」がわからないから。そもそも、「子育てはしたくてしている訳じゃない、仕方なくやっている」。これが、現実なのです。

 

私は、この事実を受け入れることに2年程かかりました。

私は、親からまったく、愛情なんてもらっていなかったんだということ。彼らは、愛情すら知らなかったこと。私も、彼らも不幸だったということ。互いに、憎み合っていたということ。

 

そこで、私は、思ったのです。

「これからの人生、楽しむ!!話は、それからだ!!!」

何の話なのかは不明ですが、とにもかくにも、幸せの第一歩として、思いっきり楽しむこと、自分のやりたいことをやってみることが大事なのではと考えました。人生を楽しもうとしなければ、楽しくなるわけがない。カタチだけのシアワセ、幻想にとらわれてたって、何にも楽しくない。

 

過去、私は色々経験し、今ここに存在する訳ですが、

「シアワセは、自分でつかみ取れ!

 何かの所為にしてたら、なんにも変わらない」

と思います。

なぜなら、誰かの所為にしても、何かの所為にしても、

自分以外の物事が変わるのには時間がかかりすぎるから。

自分が変わる方が簡単だってこと。

 

 

 

 

友達の結婚報告についてモヤモヤすること

こんばんは。honyaです。

最近、大学時代のお友達が結婚しました。非常に喜ばしいです。と、素直に祝福したい・・ところですが、そうは思えなかった今日この頃です。それは、なぜか。私はそのお友達に過去、見下された経験があり、かつあまり好きではないからだと思います。

 

「結婚は幸せなもの、祝福するべきもの、祝って当然。」

それがもはや当たり前のこの世の中ですが、私はそのような風潮がニガテです。価値観を押し付けられている感じがして。ただ純粋に、自分の身近な人が幸せそうにしている。それを見て自分も同じく幸せな気持ちになる。そこで自然に「お祝いの気持ちをあげたい」という思いになって、それをカタチにする。それが私からすると「普通」と思います。なぜ、みんな「結婚します!結婚式参加してね!」が当たり前なのでしょうか・・・・。(中にはそう思っていない方もいますが)

 

20そこそこの年齢となり、まわりで婚約した、結婚した、などの報告を聞くようになりました。私は数少ない友達のその報告を、嬉しく思いました。みんな幸せそうに暮らしている。よかったなーと。素直にそう感じました。だから、例えば結婚式に呼ばれたら喜んで参加したいと思っています。

 

ですが、実は、冒頭にあげた大学時代のお友達Aさんに対しては、そう思えなかった。

まず、一番始めに嫌だと感じてしまったのが、某SNSのグループに、「プロポーズされました!」と、ご丁寧に写真付きで報告がありました。そこまでは良かったのですが、そのあとに「結婚式で、是非余興してね♪」と。私は、絶対に余興なんてしたくない!!とその瞬間思いました。自分でもわからず、嫌悪感が拭えなかった。他の高校時代の友達に出席した時は、出し物したほうがいいかな?と率先して思ったくらいなのに。私はそのグループを抜けることにしました。

 

しかし、私は悩みました。

友達の結婚という幸せな報告に対し、私は素直に祝福することができない。罪悪感が湧いていました。

そんな中、その友達Aさんに、結婚式のお誘いが。グループは抜けたけれど、何事もなかったかのように。

誘われたからには、簡単には断れない・・と思った私は、とりあえず招待状だけはいただいて、その後検討し返事をするという選択をとりました。

 

私は、このAさんに対し、昔からモヤモヤしていることがありました。

大勢の人数がいるグループSNSで、誕生日おめでとう!と誰かの誕生日が来るたびにメッセージを全体に送っていました。でも、私の時は、何もありませんでした。

その時に思ったのは、なぜ、自分の気分でおめでとう、と送る人と送らない人を分けるのか。おめでとうと言われた人はいいかもしれないけれど、言われなかった人はどうなのか。なぜそういう気持ちを考えようとしないのか?と、そのAさんに対し不信感がありました。本人は悪気がないのかもしれないけれど。ただ、自分が誕生日を祝って欲しいから、おめでとうと言っているだけなのでは、、と、私はそう思っていました。

 

話は戻りまして、招待状には「欠席」で送付していた後日。Aさんから連絡が来ました。

「HONYAちゃん、結婚式の出席ありがとう!二次会は●●で行います。出席か欠席かこちらに返事ください(URL)」

・・・え?私のはがき見てないの????

私はその瞬間感じました。

「多分、この子は出席する人は、自分を飾り立てる頭数の1人なんだな。」

元々、Aさんは目立ちたがりやなところがありました。それは構わないのですが、今回は、欠席したことに罪悪感があった私に何の感情も抱かず、「出席して当たり前」と思われるメッセージを送って来たことです。

私は、それが彼女へ対して、友達とは言えないと思った瞬間でした。

 

結婚式は、勿論新郎新婦が主役でしょうが、結婚式に参加して当たり前、祝ってもらって当たり前、という意識がこのメッセージに表れていると私は思いました。あと、一人一人をみていない、、と。正直、私はAさんとそこまで親しくないので。。

モヤモヤしながら結婚式に参加するくらいなら、しっかりと断るべきだろうと思っての欠席だったのにな。。むこうはそこまで考えてないんだなーと、思いました。