ほにゃブロ。

猫みたいな何かがほにゃほにゃするブログ。自らの思いの丈をつらつらと書いていきます。基本は雑記、最近は西洋占星術が多めです。

エネルギーを奪う人

今晩は。HONYAです。最近、あつくなってきましたね。そんな私は先週風邪をひきつつありましたが、見事回復しました。

 

さてさて。本日のタイトルは、

相手の「悔しい、羨ましい」というネガティブになったエナジーを吸うことで、エネルギーを得る人がいるんだぞ。  という意味でございます。

 

人は、ご飯を食べてエネルギーを得ます。太陽の光を浴びて、活発に動けるホルモンが体の中で反応するから日中行動できます。睡眠することによって、体の疲れを癒して次の日も動くことが出来ます。そのとおりです。私たちはエネルギーを色々な所から得て生きることが出来ます。でも、その前に。私たちはほとんど水でできています。というか、地球上にある生き物、動物や草木、水ばっかりです。親がいってました。きゅうりって殆ど水分だから栄養ないんだよーって。子どものころの私は素直に、あそっか、きゅうりは水分ばっかりなんだーへーって。でもね、割と最近気づいたんだ。野菜って水分ばっかりだよ、キュウリ以外も。ていうか、私自身が水分だらけじゃん!って。

話はずれますが、(私の中では関連してますが)冒頭に上げた通り、私は先週体調を崩したのですが、それも理由はおそらく・・「低気圧」。梅雨が始まって、気圧が不安定になった関係で体調を崩す方が増えており・・梅雨の時期って、体調不良になる方が多いそうですよ。特に女性は。でも、何故でしょう。それは科学的にも理由があるそうです。調べた中で一番ぴーんときたことが・・、大気中の水分が増える。増えることによって、私達人間も水分たくさん、そこで空気中と私たちの境目が少なくなり・・同化しやすくなる・・・?!みたいな言葉を見つけた気がします。そこに激しく同意しました。私の勘センサーが働いたのです。

ちょっと話飛躍してますが、、空気中で私たち人間同士がリンクしやすくなり、他人と繋がりやすくなったのか?と推測しました。

 

ちなみに、某ブラック企業で勤めた過去を持つ私、社長は体調を崩しやすい方だったのですが、社長がぴんぴん元気なときは、いつも私が体調悪かった気がします。見えない所で・・そう。エネルギーとられてまっせ、おにいさん。じゃない、おねえさん。私。

まあ、ブラックな会社の社長は裏の手つかってるだろうし・・

 

というわけで、科学的には説明出来ないところで、何かが起きているのは確かなのです。

エネルギーの奪い方はね・・・いくつかあるみたいだけど、おそらく単純。

 

エネルギー質を変えるんだよ。相手の。

普通だと奪いにくいから、その人のエネルギーをくすませて、とるんだ。

自分のエネルギーに近づけるんだよ。

 

方法は・・

・何かへの恐怖をもたせる(おそれをもたせる)

・マウンティングし、相手の感情を動かし、気分を落ち込ませる

そんな感じだと思う。

 

それを無意識にできてしまうんだよ、人間はね。

潜在的”に知っている。それは、自分の経験でもあり、親の経験だったり、祖先だったりね。

 

心理学では「エス」と呼ばれるものが存在すると言われていた。

 

エスとは・・全ての人が繋がっている存在

そこはビックデータ

 

過去も未来もすべては繋がってるからね

とっても良い記事みつけた。アベノミクスについて

【完結編】続・アベノミクスによろしく~アベノミクス失敗の「原因」まで解説~ - モノシリンの3分でまとめるモノシリ話

 

上記リンクです。

結論から言うと、アベノミクスのやり方は、経済がよくなったか?

というと、そういう訳ではない。ということ。

 

記事作成された方は、「GO!選挙!」を唱えています。

普通の方は、そう思うかもしれません。

でもね、もうそろそろ、みんな気づいていいときだと思うのです。

 

選挙に参加したところで、結果は変わらない。

ということを。

 

なぜか。たった一票が何を変えられるんだろう?という悲観ではありません。

私の意思として、選挙は参加するべきではないと感じるからです。

 

なぜか。

政治家が、本当に日本をよくしたいと思っているわけではないからです。

 

理屈だけで考えたら、その意見にはならないと思います。

ただし、この世の中って、全て理屈で理解することが全てでしょうか?

わからないことだって、たくさんありますよね。

科学だって、なんだって、宇宙のことだって。全ては見聞にしかすぎない。

じゃあ、何が本当で何が嘘なのか?言い切れるのでしょうか

 

 

私は、この日本はおかしいと、あるとき気づいて

日本だけでなく、どの国もおかしいと。

そもそも国ってなんだ。

そして、偉い政治家と、一般庶民の区切りってなんだ。

なぜ、生まれた時から身分が決まっているのかって。

 

そう。生まれたときから決まっていたのです。

 

 

 

 

真実を知りたいって思えば、情報はいくらでも集まってきます。

それは、自分で調べて、考えて、悩んで、自分で理解することが出来ます。

 

感覚ではわかっても、理屈ではなかなか受け付けられない。

それが人間だから仕方ないかもしれません。

 

 

でも、いつだって、この世の中は同じことを

カタチは違えど、繰り返していますよね。

 

当たり前だって、思わないこと。

常識を疑うこと。

 

 

どっかの天才科学者も言ってたと思います。

 

 

よーく考えよー。

 

 

知りたい人は、知ればいい。

知りたくない人は、知らなくてもいい。

選ぶのは自分だから。

 

私がそう思うから、そう思っているだけで

どう思うかは、人の自由です。

嫉妬が消えていた?嫉妬は今の自分に足りないもの

こんばんは。少し久しぶりの更新です。本日も、私なりの心境の変化を感じられたので日記にしたくなりましたので、少しお話したいと思います。

 

以前のブログ記事に書きました、ある友人の話・・結婚式に招待して来たある友人です。引き続き、私はその友人のSNSを見ていました。そこで、以前感じていたある感情が薄れつつあることを感じました。それは相手の立場への羨む気持ち・・嫉妬のようなものです。実は、私は友人に対してコンプレックスを抱いていたのです。それは、同じく参加した街コンで友人は彼をつくり、その彼とゴールイン。しかし、私はその場では何も発展なく・・・。自分がその友人に負けたような気がしてしまっていて、勝手にライバル視していたのかもしれません。その後、私だって!できるもん!と思って、1人で街コンに参加を試みたのですが。笑  そんな負けず嫌いの私です。

 

ここまでが前置き。やっぱりそんな友人の幸せな報告は、私にとって屈辱でした。私にはないのに、友人には幸せのカタチみたいなものがわかりやすく存在している。優越感に浸っているだろう、私を見下しているんだろう、と私は勝手に妄想を膨らましておりました。実際少しはそう友人も思っていたかもしれませんが、、今思えば、大事なのは「今の自分」であって、なにも友人と私を比べることなんかなかったのです。しかし、私はなぜそう思えるようになったのか。それは・・

 

「今の自分」が求めているものと、友人の求めているものが、違うと理解したから

 

・・と思います。

例えば自分だったらどうするか?幸せな自分をみんなに祝って欲しい、見てもらいたい、そう思うか?・・いや、私はそうは思わない。本当に祝ってくれる気持ちのある人にささやかにお礼をしたい。幸せの絶頂としてその瞬間を迎えるのではなく、ずっと愛情溢れる穏やかで楽しい「暮らし」をしていきたい。人に見栄をはったり自分がどう見えたいかではなく、自分がどうしたいか、を考えていきたい。大勢の人に囲まれることが私の幸せではない。そんなことをずっと考えていました。

 

私の偏見かもしれませんが、SNSでリアルの友達が多く、長文を定期的に投稿する方(文章が長く、見てみてアピールが強い)は、人からエネルギーをもらっていくタイプだと思います。基本的に寂しがりやで自分から多数友達を作るけど、親友という存在はいない。広く浅くのタイプです。もし、本当にリアルの生活に満足いっているのなら、SNSに投稿しないのでは?見て欲しい、聞いて欲しい、その思いがリアルで解消しきれないから、手軽なSNSで浅く広く情報公開をしているのだと思います。それは、私だって同じです。やっぱり見て欲しいとき、かまってほしいときにSNSに投稿します。自慢だって含まれている。しかし、上記の友人に例えて言うのなら、いつだって見栄えのする自分や状況しか見せない、無邪気な自分ではなく着飾った、自分がどう見られたいか?を意識した投稿に感じ、いつも違和感を覚えるのです。「本当は、そうじゃないんでしょ?」と私は心でそう思ってしまいます。だから「本当は、思いっきり楽しんでないんでしょ?よく“見られたい”んでしょ?」

 

長文をSNSに投稿する友人に対して、私はなんだか可哀想に思えて来ました。やっぱり寂しいのかな、構って欲しいのかな、と。そう思うようになり、自然とその友人に対して羨ましいという気持ちはなくなってきました。

最近、また別の友人が結婚をするそうで。例えば結婚式に招待されたらどうしようかな?参加してもいいかもなー。なんて思えて来ました。多分、それだけ心の余裕が生まれたのかもしれません。

 

そういえば、大学時代、私はいつも友人達に嫉妬していたことを思い出しました。何かって?それは「お金」です。私立大学ということもあり、奨学金こそ借りてはいても、ある程度自由に使えるお金が親から支給されている人ばかりでした。そんな最中、私はいつだって貧乏。クレジットカードは学生当時作ることができず、バイト三昧でした。ちょっと遊びにいくだけでも一苦労。大学だって、元々生きたくなかったのに親の為を思って入学していたこともあり、さらに苦痛でした。なぜ、私ばっかりこうなんだ。お金もないし!みんなが羨ましい。そう思っていました。

しかし、今はなんとも思いません。なぜかって?そりゃあー、自立してある程度稼げるようになって。職場のアラサー男性と同等の給料もらえているし。誰かの目を気にしてごますって媚びる必要もない。自分のために稼げるようになった。奨学金だって、自分なりに返す見通しがついてきて。自分の責任を自分で管理できるようになって。だから、そんな過去のことなんかどうだって良い訳です。

 

今、私が何を求めて、何を目指すのか。

それさえ視点を持っていれば、他人がどうであろうが関係ない。

やっとその境地に足を踏み入れ始めたようです。

 

 

 

SNSの在り方について

さーて。HONYAさん2回目の出動だよー☆

 

今日はテンション上げてくよ♪きゃっきゃ。

 

。。

 

これでも、一応20代半ばの♀やってます

仕事上は・・・超真面目ぶってる(ぶれてるか?笑)人間でございます

 

でもね、本当は。本当はこんな変な奴なんです。

変な奴だと仕事にならないので、隠してますが・・・社会人ってつくづく大変ですね。

 

 

 

それはさておき。

本日は「SNS」について語るといたしましょう。

 

 

みなさんはSNSやってますか?

FacebookTwitter、最近はInstagram、前はmixiなどなど・・・。

私がSNSに触れたのはmixiが初めだった気がします。でも、本格的にやりはじめたのはFacebookTwitterあたりかな・・・。今日は何故、SNSの話をしようとしたか、というと。ほら、巷で話題のあれさ・・・「SNS疲れ」。これの話をしたかったんです。

まぁ、この話題で盛り上がれる友達が近くにいなくって・・。というより、自分と同じ想いをもっている方はネットの方が確立高いしーーっていう言い訳★

話を戻しまして、SNSって、ある種「快楽の中毒」ですよね。投稿して、「いいね!」やリプライされると嬉しくなる。また「いいね!」ってして欲しいから、ネタ探し。そう。「ネタ」。結局、なんだっていいのですよ。根幹は、「見て欲しい」があるからなんですから。心理学的に言えば、かまってほしい人こそSNSに投稿するのです。そう。速攻で返事が欲しい。「即効性」。(心理学的に言えてないと思うけど見逃してください)

自分の承認欲求がすぐそこで叶う訳です。ただし、それはほんの一瞬です。

まぁもともと目立ちたがりやのタイプだっているでしょうし、SNSに投稿したからダメとかいいとかそういうものでもないと想います。投稿するのは自由ですし。ただし、その投稿をみて「落ち込む」人もいる訳です。いや、もしかしてですよ?承認欲求に突き動かされた寂しい人が、自分のリア充アピール投稿をしています。それをみて、「あーぁ、羨ましい。ずるい」って思う人がいます。でもそれって、根幹は同じなのかもしれない。今の自分に満足していない、人と比べてしまう人は、そうして落ち込んでしまう。これが所謂「SNS疲れ」と呼ばれるものと想います。劣等感を刺激されてしまうのですね。嫌ならみなきゃいい!・・ということで。実は私もFacebookを何度か削除しました。笑 最近は復活していますが。それでも少し前程、他人を羨ましいと思うことはなくなりました。なぜかって?そりゃー聞かなくてもわかるでしょ!

 

私が、今、そして未来の人生を楽しんでいるからだよ!!

 

そりゃあ人間だもの、少しでもいい暮らしがしたいし、たくさん好きな物に囲まれていたい。色んな物が欲しいさ。だから他人のよくある幸せのカタチが、とっても羨ましくて、それが自分にはなくって、悲しくなったりすることもあるんさ。けれどね、いつの間にか、それを乗り越える日が訪れて来ている、今の私はそう思うのです。

 

私の持論。真のリア充SNSに投稿はしない。

 

ただし、中にはSNSの利便性、他人への告知や報告ツールとして活用されている方も多くいることでしょう。その方々を抜きとしても、例えばそこまで仲良くもない他人みたいな「友達」にアピールすることって、本当にあるのでしょうか

 

 

 

私はTwitterで、一日に50件くらい投稿したこともあるほどの中毒者でした。しかしすでにTwitterは知り合いとフォロー関係は結んでいません。もう、みなさんに直接伝えたい、聞いて欲しいことはなくなったからです。当時の私は、自分に自信が無く、かまってほしい気持ちでいっぱいでした。人とは違う自分をアピールしたかった。必死でした。けれど、あることをキッカケに辞め、それからは知り合いと繋がってツイートせずに別のアカウントを作成しました。それは自分の自己満のようなもので、特段意味はありません。私の中でTwitterの位置づけが大きく変わっていました。

 

そんなようなカタチで、私の今のタイプは、不特定多数にこうしてブログでアピールすることは行いたい、やっぱり承認欲求があることには変わりありませんが、それを小さな世界で繰り広げることをやめようと思ったのです。だって、もっと自由な方がいいじゃん。そう思えたのは、やっっぱり自分に自信をもつことができたからでしょう。

 

SNSを通じて、また勉強になったなぁと、私はそう思っています。

最近の自分のオハナシ

こんばんは。honyaさんです。

最近は暗い日記が多かったなーと振り返って思いますが、今日は今の自分について書こうと思います♪(るん)とってもたわいもないハナシ。

 

GWは有給を使用して、なんと10連休いただいていました。無職だった期間は3ヶ月連続休みでしたが。。久しぶりに、長期のお休み!浮かれていたのでしょうか。財布の紐がゆるゆるで、お金を使いすぎてしまった・・。恥ずかしながら、いつも使用しているクレジットカードではないもう一つのクレジットカードの決済があることを忘れていて。。美容院いったりでかけたりなんやらで、お財布はとっても寂しい状況へ。

そこで、私は決意しました。

「自炊する!!限られたお金でやりくりしたらいいじゃん!これは試練ナリ!!」

逆にテンションが上がって来て、25日の給料日からはなんと!毎日自炊ができています。(パチパチ)え?当たり前??確かに、一人暮らしで毎日自炊しているのなんて当たり前体操かもしれない。ですが!!私にとっては非常に大きい一歩なのです。(!)

 

どこかでこう思ってたんですよね。

「私は毎日自炊なんかできない。できない。できない。」

そう強く意識したのも、同じ会社の同僚が、毎日弁当持参/自炊をしており、、、。男性にも関わらず。女子力負けてんじゃないか(笑)と思って、私は自分を卑下して諦めていたようでした。

「っけ!どうせできないよー私には・・。」

小学生のように(語弊があるかもしれませんが)意地けていた自分がどこかにいました。

しかーし!もうお金がなく、やりくりするしかない!給料日までとりあえず凌ぐのだ!!!!

と思ったが吉日。(?)

 

意外にデキルじゃんワタクシ!!

 

で。私は仕事は営業で車移動なので、お昼はコンビニで買っていました。けれど今はコンビニに言っても何も買わず、お弁当持参して食べる!!!それをしている自分・・///といった感じで酔っております。陶酔しております。(ね、変でしょ?笑)でもなんか楽しくなって来たんですよね。

 

毎日できちゃってるワタシ、偉いぞ!偉いぞおおおおお♪

 

地味に、会社でもお弁当持参していることを褒められたことも効いている。

 

ほら、今までのワタシとは、ひと味もふた味も違うんだぜぇぇぇ????

 

そうやって調子にのります。でもワタシはきっと、そのくらいがちょうどいいと思いました、今。(今?)

 

そんな感じで、節約することが楽しくなり、節約は節約が目的ではなく、節約してちゃんと節約出来た、目標を達成出来たという自分が誇らしく思える、素晴らしい高☆循環なものであると感じたのであります。

自分に手応えを感じつつある、20代半ばのある初夏の日なのでした・・・

世の中の色々な真実

こんばんは。

 

GWが明けて、軽く5月病になっていたと

5月が終わって気付きました

going my way is honyaです。

 

 

想念のこととか、

夢のこととか、

目に見えない何かとか、

それらと目の前の現実と、

 

何が事実なのか?

本当のこの世の因果関係って

なんなのだろうか

 

そんなことを結構考えてました。

 

 

 

私がよく見てるあるブログがあるのですが、

人間ではなく

猫や自然からインスピレーションを受け

常識では考えられないことを綴っています。

 

私はそのブログが大好きでいつも見てます。

 

 

スピリチュアルとか、

アセンションとか、

そういった界隈に興味があって、

宗教じみた某サイトを見ていたこともありました。

 

それでも直感で、何かが違うと思って

では何がこの本当の世界なのかを

自分なりに考えるようになった時、

自分の考えに近いブログが、その先にあげたブログです。

 

 

 

私がなぜ、そんな事ばかり考えるのかって?

 

それは私の過去が起因でしょう。

 

私の中の記憶では、

母親が私をめちゃくちゃに蹴る殴るを繰り返していたのに

私の母親の記憶では、

そんなことするわけが無い、そんなこと言うなんて酷いと、私が悪者になってしまいました。

 

 

何故、二人の記憶は違うのか?

 

はじめはその理由を心理学に求め、

精神的な病理なんだと理解しました

けれど、多分それは本当の「原因」ではないのですよね。

そんな根拠なんて全くありませんが、

私にはそう思えて仕方がないというか。

腑に落ちなかったのです。

もっと複雑、いやむしろ逆で

もっと単純なのかもしれない、って。

 

 

 

私の母親は父親にDVされていました。

その姿を見て、私は震えていることしかできなかった。

DVを受けた逃げ場をなくした母親は、子どもに手をあげるようになります。

それも、罪の意識なく。

 

彼らは必死だったのです

 

 

 

でも、ではなぜ、そんなことになるの?

母も父も、なぜそうなってしまったの?

 

原因はDVという父親の行動が起因していた

目に見える理由はそうだ

 

でも、本当は、

DVすることでエネルギーを奪ったんだ

 

そのエネルギーを奪って、

自分に付け替えた

 

 

そして、その付け替えは、

そこにいる父親だけではなくて

そのエネルギーを栄養源にしている別の存在、目に見えない別の次元に存在している。

 

 

それは、父が望んだことなのか

はたまた別の想念か、存在か、

わからないけれど

 

 

 

 

自分を愛せない父は

身近な存在をいたぶる事で誤魔化していた

 

自分を愛せない父は

カラッポな器にその黒い沈んだエネルギーを手に入れた

 

自分を愛せない母は

身近な存在をいたぶる事で誤魔化していた

 

 

 

 

 

 

 

同じなんだよ。

 

繰り返すってことは、

 

同じなんだよ。

 

 

 

 

 

それを誤ちだと、

認められる器(ハート)がなければ、

そうする他ない。

 

 

 

 

悲しいけどね、

 

だから私は、憎みたくない

 

それが誤ちだと、理解した上で

 

 

憎む心は、自分の心も削ってしまうから

 

 

 

 

でも無理しなくていいんだよ

 

ゆっくりでいいからと

 

私は自分にそう、言い聞かせた

 

自己嫌悪だってたまにはするよ、たまには人を責めたくなるよ、人間だもの。

こんばんは。久しぶり登場のHONYAさんです。

今日は、自己を省みていました。内なるMy Self(合ってる?笑)とずっとね、話し合ってました。そこでね、あーもう自分なんて嫌だ!何もかも嫌だ!なんで私は生きてるんだろう?何の為に生きてんだろう?もう仕事行きたくない!なんで仕事行かなきゃいけないの?ていうかやりたくない仕事めちゃ溜まってるよ!!もう・・もう疲れたよパ●ラッシュ状態でした。

こうして定期的にこういう自己嫌悪ってあるんですよ。理由は様々なんですがね、大概そんな時はね、今の自分に失望している状態なんです、それが自己嫌悪。(さも分かってますよーみたいなことになってますが、でもね、この今の自分の状態はなんぞや!?と思ってずっとネットで調べてた結果そう思っています。えぇ。実は。小声)

そこでこう書かれていたんです。

 

「自己嫌悪は、よくない。」

「自己嫌悪するなら、反省をしなさい。」

 

と。要は、自己嫌悪と反省は似て非なるものであり、かつ自己嫌悪はよろしくない。なぜならば、反省は今後をどうしていくべきか?と前向きな考えであるが、自己嫌悪はただ暗闇の奈落の底まで落っこちてしまい、一体何がダメなのかわからず彷徨ってしまうネガティブなものであると。そんな感じだった気がします。(なんか適当だな、オイ・・)

 

でもさ、それってさ、本当にそうなのかい??と。

 

私はこの世界には裏も表もあると思っていて。何がダメで何が良いとかなんとか、善悪ですらそれは一人一人の視点によって変わる物だと思っています。そして、ネガティブだって♪ポジティブだって♪(カエルだーって、オケラだーって、アメンボだーーってーーーーのリズムで再生ください)、それは行きていく為に必要な物であるからこそ存在している物だと思っています。どっちかがダメでどっちかが良いって、それは極論ではないか?と。ネガティブだっていいじゃない、ポジティブだっていいじゃない、人間だもの。み●を。

 

だってさ、例えば自分の過ちで誰かに迷惑をかけたとするじゃん。そしたらさ、自己嫌悪しない訳がないよね、普通。それをさ、「次はこうすればいいじゃないか!はっはっは!」とすぐ切り替えられたらさ、それってそもそも自己嫌悪するものでもなかったんでない?悩む程のものでもないんでない??と思う訳です。

だから、なんでもかんでも「だから自分ってダメなんだ・・・」と思うのは良くないにしろ、自分がしてしまったことに対してショックを受けるのも、ある意味大事なんだと、私は思うのです。ひとしきり自己嫌悪してしまえばさ、後はどうすればいいのかって、そこからポジティブになればいいじゃない。私は、嫌だなー自分嫌だなーと思ったら、泣きます。泣いて、あーー誰かに慰めてもらいたい!けどね!このくらい自分で解決しなけりゃ素敵なLADYになれないぜ!!!と、My self応援団が舞い踊っています。(ちなみに、つい1時間程前のこと)

 

という訳で。今日は自分のこと嫌いになりそうで、、、と思っていたけれど。会社の上司だって「やる気あんの?怒」「どんだけ適当なの?怒」と私をいつも責めてきて、ちっとも褒めてくれやしない!(プリプリ)と、いつも頑張っているのに悲しくなって帰り道に涙していたただのOLですが。でも、自分の思いや感情を出す、確認することで、自分を執拗に責める私はいなくなった気がします。今日はヤケ酒だーー!!って思ってビールの缶を冷蔵庫から引っ張り出してみました。まだ空けてないけど、これから珍しく1人で飲んでみようかな。なーんて思ってたら、自己嫌悪はしなくなりました。

 

あと、今日ずっと考えて思ってたことなんですがね、

人を責めてしまうときって、自分に余裕がない時ですよね。

自分が自分を認められないとき、少なからず他者と比較したり、実は同族嫌悪だったり。でも責めれば責める程、認めたくないときなんですよね。

本当にどうでも良い相手だったら、責めることもせず、空気扱いにするんでしょうね。というか華麗にスルーできちゃう。意識的になっている時点で、同類なんですよね。だから、私はこう思いました。私が他人を責める権利なんて、どこにもないと。でも、責めたくなっちゃう時だってあるよ、悲しいトキー、悲しいトキー、辛いトキー、辛いトキー。。だから仕方ないし、そういう自分を生暖かく見守れるもう1人のMy selfを養おうって思います。全部自分であり、かつ他人であり、全ては繋がっているのだから。

 

みんなみんなー生きているんだ、友達なーんーだー♪